今日の主役は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」、19世紀末から20世紀初めに活躍した、印象派を代表する画家のひとりです。今年は生誕180周年の記念の年。今回はこのルノワールから、シャンパーニュをたどっていきましょう。
ルノワールが過ごした村エッソワ
ルノワールは、38歳のとき、妻となるアリーヌ・シャリゴと出会い、すぐにパリで二人の生活を始めます。ちなみに、アリーヌは当時19歳と言われています。まあ、この年の差については触れないこととして、アリーヌは、シャンパーニュ南部のエッソワ(Essoyes)という村のぶどう栽培農家の出身でした。
1885年、ルノワール44歳のときに、長男ピエールが誕生し、ルノワールは初めて、アリーヌの故郷エッソワを訪れます。
エッソワのお話をする前に、シャンパーニュの基本的なことをご紹介しておきましょう。シャンパーニュというのは、フランスの中でも、シャンパーニュ地方の限られた場所で栽培されたぶどうから、規定に則って造られた発泡性のワイン、つまり泡の入ったワインです。シャンパーニュの生産地域は、2015年7月4日には、「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」としてユネスコの世界遺産に認定されました。
シャンパーニュというと、フランスの歴代国王の戴冠式が行われたノートルダム大聖堂があるランスや、ドン・ぺリニヨン像があるエペルネを思い出す方が多いかもしれません。しかし、ルノワールが滞在したエッソワは、エペルネからは140kmほど南で、シャンパーニュでは南部の「コート・デ・バール」という地区に位置します。エッソワから北西に50kmほど行ったところには、トロワ(Toyes)という、中世に大市が建っていたことで知られる町があります。木骨組のかわいらしい家並みでも有名ですね。
ノワールがこの地を愛した理由
1888年の秋、ルノワールはエッソワに初めて長期滞在します。イギリスの画商に、「徐々に農民になっているよ」と手紙を書き送っているほどにお気に入りだったようです。「収穫者の昼食(le déjeuner des vendangeuses)」や「収穫者の休息(Le repos des vendangeuses」]を描いたのもこの時です。
以来、毎年のようにルノワール一家は、エッソワに滞在しました。子供たちは収穫を手伝い、自分は絵を描くことに専念する。ルノワールはなぜそれほどに、この地での生活を好んだのでしょうか? 推測も含めていくつかの理由を挙げてみましょう。
- 暖かな陽光に溢れる
エッソワのあるシャンパーニュ南部は、ランスやエペルネなどの北部とは違い、ルノワールの絵の色彩にも通じるような暖かい陽光に恵まれています。もちろん、フランス全土から見れば北に位置するので、冷涼な気候ではありますが。
- のんびりとした生活
有名なシャンパーニュ・メゾンがひしめく北部とくらべると、当時のコート・デ・バール地区は、ランスやエペルネなど北部の有名メゾンへのぶどうの供給地で、多くの場合、小さな農家が家族でぶどうを栽培していました。慎ましくも、穏やかな生活があったのではないでしょうか。
- 地元のワインがお気に入り
息子のジャン・ルノワールは、後にこんなことを回想しています。「父は、アルコールはあまり飲まなかったけれど、エッソワのワインをとても好んでいました。辛口で、爽やかで、小石の多い土壌から生まれるワインです」。おそらくは、発泡したシャンパーニュとなる前の、地元で造られた発泡していないスティルワインだったのでしょう。
生涯で4,000点以上の膨大な数の作品を残したルノワール。絵筆を持たなかった日はないといいますが、そういう彼だからこそ、朝から晩までひたむきに働く農家の人たちと波長があったことでしょう。
夏こそ! シャンパーニュ
暑い夏は、すぐそこまで来ています。夏こそ、キリッと爽やかでありながら、味わい深いシャンパーニュは最高の友となります。辛口もあれば、少し甘口ものもありますので、いろいろなフルーツとなわせることができます。モモやスイカ、ラズベリーやイチジク・・・食べたい! そんな時、良く冷やしたシャンパーニュと一緒に、お召し上がりください。
そして、召し上がる時には、シャンパーニュのラベルにも、少し注意してみてください。ラベル上では、シャンパーニュ地方であれば、北部、南部どこでつくっても「シャンパーニュ」。でもラベルの片隅に書いてある村の名前に少しばかり興味をもっていただくと、エッソワはじめ、ウルヴィル、クルトゥロンなど、コート・デ・バール地区の村の名前を発見することも。そんなボトルにめぐりあったら、ルノワールが愛した場所の近くで造られたのだなと、ぜひ思いをめぐらせてみてください。